大阪・関西万博開催を記念して、チェコ共和国よりブルノ国立劇場ドラマ・カンパニーが来日し、2025年6月4日(水)と5日(木)に公演を行います。
上演するのは、チェコの国民的作家カレル・チャペックの傑作『母』。
第二次世界大戦前夜の1938年、ヨーロッパに不穏な空気が漂う時代に書かれた作品です。
戦争で夫と4人の息子を失った母ドロレスは、最後に残った末っ子トニまでもが軍隊に志願することに葛藤する。
霊となってあらわれた家族はトニの考えを支持し、ドロレスは懸命に抵抗するが、ついにある決断にいたる―。
卓越した知性で未来を見通し、ユーモアあふれる筆致で平和を訴えた、カレル・チャペックならではの作品です。
カレル・チャペック(1890ー1938)
チェコスロバキアを代表する小説家、劇作家、評論家、ジャーナリスト。旅行記や童話、評論なども執筆したほか、園芸や愛犬にまつわるエッセイも人気を博す。SF作家としても広く知られ、戯曲『R.U.R.』(1920年)で初めて「ロボット」という言葉を生み出した。ヒトラーやナチズムを批判し、のちにナチスが逮捕に向かうことになるが、チャペックはその数か月前に48歳で世を去っていた。1937年に書かれた戯曲『白い病』は、近年の新型コロナウィルス蔓延の様相に酷似した、疫病下の社会描写で話題となった。ノーベル賞候補に7度も挙げられた、20世紀初頭の中欧にそびえ立つ知性のひとり。
フェニーチェ堺でも自身の劇団公演を実施し、カレル・チャペックに傾倒した経験のある関西演劇界の若き旗手・藤井颯太郎さんは、『母』は難しい作品ではない、と言います。
当時の自分のように熱に浮かされる観客が一人でも増えてほしい、と公演に向けてコメントを寄せてくれました。
17歳の夏、僕はカレルチャペックに出会った。
彼の代表作『RUR』を読み衝撃を受けた僕は、数日のうちに、彼が生涯で書いた全ての戯曲を読みきった。
あれから十年以上経ったが、未だに彼の作品から受けた熱の余韻は僕の中に残っている。
あらゆる立場、あらゆる思想、あらゆる肩書きをもつ人間たちが一つの場所に集められ、一つの危機について語り合う。
彼の作品はいつも、世界が抱える普遍的な危うさをほんの数時間の中に凝縮し、封じ込めていた。
彼の書く演劇はどれも良質な旅みたいだ。
それは遠い異国からさらに遠い異国へ移動するような、横移動の旅じゃない。
近距離にいながらも出会うことはなかった、全く背景が異なる人たちとの出会いと対話が繰り返される「縦の旅」を彼の作品は体験させてくれる。
現実世界では出会うことが出来なかったかもしれない人たちが物語の中で出会い、語られなかったかもしれない言葉を紡ぎ、現実に起こり得るかもしれない未来へ辿り着く。
カレルチャペックはそんな体験をさせてくれる稀有な作家なのだ。
藤井颯太郎(俳優・作家・演出家)
1995年、滋賀県生まれ。2013年『ミルユメコリオ』で幻灯劇場を旗揚げ。同作でせんだい短編戯曲賞を最年少受賞。近年はホテル一棟を舞台に上演される“泊まれる演劇シリーズ”の演出を手がけたり、オーケストラに四つの小説を書き下ろしたり、NHK連続テレビ小説『おちょやん』に出演するなど、結構頑張っている。
今も続くロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、2022年2月にウクライナ東部に住むロシア系住民の保護を名目に、突如としてロシアが侵攻したことに端を発します。
今から87年前の1938年、カレル・チャペックの祖国でも同じようなことが起きていました。
ナチス・ドイツは、戦争を露骨にちらつかせながらチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を求め、9月に開かれたミュンヘン会議を経てズデーテン地方を併合しました。
ヒトラーが強硬に国土の割譲を主張した理由は、そこにドイツ系住民が多く住んでおり、ドイツへの編入を望んでいるから、でした。
ハンガリーとポーランドの介入も加わり、瞬く間にチェコスロバキアは解体されていきます。
カレル・チャペックの最後の戯曲となった『母』は、同年の2月に首都プラハのスタヴォフスケー劇場で初演されていましたが、そのなかで描かれた「祖国を守るために戦うべきか否か」をめぐる家族の葛藤は、亡国の瀬戸際に立たされていたチェコスロバキアの人々の胸にどう響いていたのでしょうか。
ヨーロッパ中で1,000万人もの死者を出した悪夢のような第一次世界大戦が1918年に終結し、チェコスロバキアはオーストリア=ハンガリー帝国から独立を果たしました。
28歳で自分たちの国を持ったカレル・チャペックは、よちよち歩きの新興民主主義国家が健全に成長していくために、文化の側面から祖国を支える人間のひとりとなります。
祖父の代までは農村部でしか話されていなかったチェコ語で小説や戯曲を発表し、新聞に多くの記事を書きました。
ときに民主主義や自由主義の擁護者として、ときに庶民の生活にあたたかな明かりを灯すコラムニストとして、そしてユニークな視点で物語をつむぐ作家として、全欧で名を知られる文筆家となっていった彼は、やがて隣国ドイツなどを震源地とする、次の戦争(第二次世界大戦)の脅威と対峙していきます。
そして1938年、ズデーテン地方の割譲からわずか3か月後、ペンで祖国を守る戦いに力尽きたかのように、カレル・チャペックはこの世を去りました。
48歳の若さでした。
故郷の山々を愛し、生き物を愛し、園芸を愛し、芸術仲間との集いを愛し、何よりチェコスロバキアを愛した穏やかなる知性が、激動の人生の果てに行き着いた戯曲『母』。
登場するのは、自分が信じる大義のためなら死ぬことをためらわない男たちと、家族が死地に向かうことを絶対に認めない母です。
そこで問われる“戦う意味”は、作品が書かれて90年近くたった今でも、私たちから遠ざかってはいません。
自国チェコスロバキアへの侵略が現実味をおびる緊迫感のなか、『母』の結末でカレル・チャペックが示した答えに、あなたは驚くでしょうか。
それともうなずくでしょうか。
(フェニーチェ堺担当者)